皆さんが使われているカラーフィルムの誕生のいきさつを御存知でしょうか?世界初の実用的なカラーフィルムとしてコダックが1935年に16mm動画用コダクロームを発売し、翌年35mmスチル写真用コダクロームを発売していますが、その発明の裏には19世紀のドイツの作曲家、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)が関わっています。
私が写真好きである事は皆さん御存知ですが、実はクラシック音楽好きでもあります。特にドイツロマン派の音楽に関しては写真以上に筋金入りの「マニア」で、ロマン派の代表的な作曲家のローベルト・シューマンの妻である、クララ・シューマンを専門に扱った私のもう一つのホームページ「A
Plaza of Clara Schumann」は日本唯一のクララ専門ページであり、世界的に見ても珍しい物です。故に私の本名はインターネット上のロマン派音楽の愛好家(アマチュア)の人はもちろん、一部の著名コンサートピアニストにも知られています。そしてシューマン夫妻との親交が厚かったブラームスは私の守備範囲でもあります(^^ゞ
コダクローム誕生秘話の事を初めて知ったのは「写真レンズの基礎と発展」小倉敏布著、朝日ソノラマ社のコラムを読んでの事です。それで興味の湧いた私はインターネットで調べてみましたが、日本語では何も出てきませんでした。しかし英語ならば幾つかの記事を発見しましたので、このつぶやきを書く気になりました。どうせ書くのだから、私の写真とクラシック音楽に関するマニアックな知識を活かして、少なくとも日本語圏と英語圏のインターネット上のどの資料よりも詳細な物を書いてみようかと思います(ホントか?)。
コダクロームの発明者は、レオポルド・マネス(Leopold
Damrosch Mannes, 1899-1964)とレオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky,
Jr. 1900-1983)です。二人は共にプロの音楽家で、マネスはピアニスト、ゴドフスキーはヴァイオリニストでした。しかし二人は音楽以外にも写真という共通の趣味を持っていて、それが写真の歴史に金字塔を打ち立てることになりました。
二人が高校生だった1917年、カラー動画(英語資料では映画のMovieではなく、Motion
Pictureとありました)と銘打った「Our Navy」を見に出かけました。しかしその色合いはもやがかかったような、鈍くてはっきりしない物で、「自然な色」からは程遠い物でした。意欲的なアマチュアカメラマンであった二人は「もっと良いカラー写真の方法があるはずだ」と考えました。自然な色合いの実用的なカラー写真は50年以上に渡って著名な科学者たちが研究を続けながら、当時まだ誰も成功していないものでした。その当時すでにコダクロームという商標のカラーフィルムは存在していましたが(1914年発売)、それは三原色ではなく二色で再現するカラー写真で、ポートレートには使えたものの、風景などの多彩な色を含む被写体には使い物にならないフィルムでした。後日コダクロームはこの二人の発明するフィルムの名前になりますが、彼らのコダクロームはオリジナルの二色コダクロームとは全く関係の無い物です。
さて、16〜17才のマネスとゴドフスキーは高校の物理の実験室でカメラと投影装置を製作しました。それは三つ一組のレンズとフィルターからなり、それぞれが三原色の一つを受け持ちます。その装置が生み出した写真はそれまでにない色再現性を備えており、二人はこの装置で特許を取得しました。しかしまだそれは実用化できる手法ではありませんでした。
その後ゴドフスキーはUCLAに入学し、ロスアンジェルス交響楽団のヴァイオリニストになります。一方のマネスはプロのピアニストとしての活動を続けるかたわらで、ハーバード大学で物理を専攻しました。アメリカ大陸の西と東に離れ離れになった二人ですが、より良いカラー写真の手法を目指した共同作業は続けました。1922年になるとゴドフスキーはカリフォルニアでの仕事を辞めてニューヨークに戻り、そこで音楽家として活躍していたマネスと共に、音楽活動の余暇時間にカラー写真の開発に打ち込む事になります。仕事があればベートーベンなどを演奏し、演奏会が終わるとすぐに彼らの実験室に戻って写真の研究に勤しむという生活が始まったのです。彼らは台所と風呂場を研究室と暗室にしてしまったため、彼らの両親にとっては迷惑千万な事ではありました...
1922年にマネスがヨーロッパに演奏旅行に出かけたときに、ベンチャー投資会社のKuhn-Loeb
and Co.(クーン&レーブ社)の重要なポジションにある人物と知り合うことが出来ました。その人物はマネスの話を聞いて、カラー写真に対する熱烈な構想に大いなる興味を持ちました。その数カ月後にKuhn
- Loeb社からLewis L. Strauss(ルイス L. シュトラウス、30年後に米国原子力委員会会長になった人物)がマネスのアパートを訪問して、マネスとゴドフスキーはとてもビックリしたと伝えられています。シュトラウスは二人のカラー写真の研究成果を子細に視察して帰りました。
アパートが寒かった為に、二人のカラー写真研究の現像処理はとても長い時間を必要としました。しかしKuhn-Loeb社が二人に2万ドルを投資したおかげで、二人は研究に適した実験室を建設し1924年には更なる特許を取得することに成功しました。Kuhn-Loeb社の2万ドルの投資は、同社にとって史上最も大きな利益をもたらした投資となったそうです。1930年、イーストマン・コダックは二人の発明とその成果に大きな関心を寄せて、二人のカラーフィルムに関する発明の使用権を買い取り、更にコダック研究所設立者のケネス・メース博士(Dr.
C.E. Kenneth Mees)に二人をコダックに招聘させて、研究室を二人のために設置して彼らを研究員に配置しました。
1933年までに、マネスとゴドフスキーはコダック研究所のスタッフと共に、世界初の市販可能な3色の感光層を持つホームカラームービーフィルムとその現像プロセスを開発しました。この歴史的な大発明の内容は、ゼラチンのロールフィルムに三つの感光剤をコーティングしたもので、それら感光剤はそれぞれ赤、緑、青の色にだけ反応しました。そして現像過程において、シアン、マゼンタ、イエローの色素を各感光剤に加えることで、自然な色のポジ画像が出来上がる仕組みでした。この発明の成功によりコダックは1935年4月15日にに世界初の実用カラーフィルムである16mm映画用コダクロームを、翌年1936年(1935年という説もあり)には35mmスチル写真用コダクロームを発売したのです。
さて?今回のつぶやきの本題のブラームスはいずこに???
このコダクロームの発売の1年前、恐らくはコダクロームの市販化に向けた最終研究段階にあった1934年、彼らはテスト撮影フィルムの現像処理を真っ暗な研究室で行っていました。彼らには時間を正確に計る必要がありましたが、もちろん時計は見えません。そこで二人のプロの音楽家であり、アマチュアからプロに転向した科学者の採った手段は...
ブラームスの交響曲第1番、第4楽章のあるフレーズを、2拍を1秒というリズムで口笛で演奏しながら、正確な時間を計ったのです!
...二人はコダクロームの発売後もコダック研究所で研究を重ね、1941年に発売されたコダカラー・ネガフィルム、1942年に発売されたエクタクローム(コダクロームとは異なり、現在主流となっている色素を乳剤にあらかじめ含ませたポジフィルム)の礎を築いたとされています。二人はやがてコダックを去り元の音楽家の道を歩みます。マネスは1939年にコダックを去っていますが、ゴドフスキーがコダックを去った年は調べた範囲では分かりませんでした。
この逸話はコダクローム伝説として英語圏で語り継がれています...ブラームスが、そしてそれを愛好する音楽家がいなければ、現在のカラーフィルムは生まれなかったか、もっと違う形になっていたのかも知れません。そう思うと、あなたもブラームスを一度聴いてみたくなりませんか?
次回つぶやきでは、カラーフィルムの生みの親であるレオポルド・マネスとレオポルド・ゴドフスキー、そして彼らが暗室で口笛吹いて時間を計ったとされるブラームスの「コダクロームのメロディ」について書いてみましょう。
続く
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